「ひさしぶり、ごめん。なんかごめん。」
ゆーちゃんは半腰まで立ち上がりながら、顔を隠し、少し気まずそうに僕から視線をはずす。
辛いことがあったことはひと目で分かるし、聞いてあげられる存在がいればいいことは分かっていたけれど「聞くな」というプレッシャーを感じた。あと、その役目が自分なのかどうかもわからない。
とにかく僕は「ちょっとまってて」と一言残し、タオルを一枚と、温かい飲み物をコンビニで買ってきた。隣がコンビニでよかった。ゆーちゃんは明らかに数分前まで雨に打たれていたし、身体は冷えきっていたようだった。飲み物をうけとると、頭にタオルを被り、両手で握りしめた。
少し沈黙が流れ、先に口を開いたのは彼女だった。こんな時、何を話せばいいのかわからない自分が不甲斐ない。
「どこか、行く途中?」
「これからバイト。ゴールデン街でお世話になってて」
「面白そうなところで働いているのね」
「うん、知り合いに誘われて。行った時ある?」
彼女は首を横にふる。ゴールデン街とは、新宿にある歴史の長い飲み屋街だ。たくさんの著名人や作家、アーティストなど、個性豊かな人々がゆったりと馴染みの店で飲み明かす。若くて無知な僕にはそんな街の姿がとても魅力的に思えた。
僕らは人生に迷っていた。
いや、厳密に言えばやりたいことはあった。バンドを組んで音楽を作ったり、小説を書いて空想の中に浸ったりと、僕自身の人生には常に行き場があった。だが、だからと行って道に迷わないというわけではない。いつだって目の前にある目標や夢なんてものは一過性であり、時間の気まぐれが作り出した産物で、そこがゴールだなんて思っていなかった。
まだ何かやれる気がしていた。消化不良だった。
結局「全て世の中の目的や目標は一過性であるし、都度、目の前のゴールを追っていくしかない」と気づくことになるのは、また後の話だ。
そんな迷いの最中、ゴールデン街は僕にたくさんの経験と出会いをくれた。出会った人と、秘密の計画を練るのは楽しかった。あれをやろう、これをやろう、なんて言って。僕は、そんな大人の屋根裏部屋のようなゴールデン街に惹かれたのだった。
「いきたい」
ゆーちゃんは先ほどの姿が嘘のように、突然、笑った。目には好奇心が宿っているのがわかる。まるで餌を見つけた犬みたいだ。ゴールデン街という響きは、新宿や渋谷の町並みに馴染んだ人間にも、魅力的に響く。
断る理由はなかった。マスターは、一見、パンクで怖そうなお姉さんだが、人としての厚みのある人だ。問題なく受け入れてくれるだろう。僕たちは雨に艶めくアスファルトの道を、よろよろと歩いた。人混みは苦手だった。あらゆる淀みが溜まりきった沼の底のような感じがしていた。
「あんた、また可愛い子連れてきたねぇ」
バーにたどり着くと、マスターは間髪入れずにゆーちゃんを受け入れた。感のいい人なので、頭にタオルを被った彼女の姿を見て、何か感づいたのは分かる。だが、感づいたことさえ見せない素振りが、僕との圧倒的な差そのものだ。
なお、マスターについては、その性格と、30代だということしか知らない。名前はアキさんと呼ばれていた。本名では無いようなので「なんでアキなの?」と尋ねたが「夕焼けが好きだから」というなんとも直感的な彼女らしい答えが帰ってきた。素性はよく知らないが、それでいいと思っていた。尋ねる人は、この場には1人もいなかった。
アキさんは椅子の1つに彼女を座らせると、ひざ掛けを準備し、温かいココアを持ってきた。僕の買った飲み物、ミルクティーはすでに空になっていた。
「すみません、急にお邪魔してしまって」
「いいのいいの。家みたいなものだと思って、ゆっくりしてきなよ」
アキさんは、カウンター裏で準備していた僕の方に寄ってくると、耳元で「一緒にいてあげなよ」と囁いた。僕の仕事はお酒を出すこともそうだったが「若い学生が珍しい」という特権をいかした、大人の話相手、というところが的確だ。小さい店である。そもそも労力的には僕が必要になる隙間はほとんど無い。僕はうなずいで、彼女の隣の席に座った。
「ここで働いていると、色々な人に会うんだ。」
僕はそう切り出して、缶ビールをあけた。
「サラリーマンの愚痴を聞くこともあれば、有名な作家さんの自慢話を聞くこともある。泥酔したお姉さんの話を聞くこともあれば、恋人が出来て嬉しいというおじさんの報告を聞くこともあって」
本当に色々な人に出会ったなぁと話しながら、しみじみと思う。みんながみんな、まるで杭を1本1本心に打ち込むように衝撃を残して帰るものだから、なかなか忘れようもない。
「普段聞けない話を色々聞けるところが、気に入ってる。」
「素敵なバイトね。働き始めてどれくらいになるの?」
「大体半年かな。ちなみにハルさんともここで出会ったんだ。最初、ものすごく酔っ払ってて。お酒臭いおじさんだなぁとか思ったけど」
「あはは、そんな印象ないよね。」
少し、いつものゆーちゃんが戻ってきた気がした。彼女とは初めてあった時から初めてという感じはしなかった。気兼ねなくなんでも話せるような気がした。結果的に付き合うとかはなく、いい友達で終わったのだけれども、その「いい友達」という定義を僕の中で固めてくれた人だったのだと思う。
「あたしね、家出してきたんだ」
しばらく他愛もない話をしていて、少し空いた沈黙のあとにそう切り出した。突然の告白に驚くわけでもなく「やっぱりか」と思う自分自身がいて、そうした社会に慣れてきていることを実感した。
「父親がDVで。警察とかにも話をしたんだけど、何もしてくれないし、生活保護センターだっけ? っていうところにも相談してみたんだけど、結局何もしてもらえなくて。でもあたしが家を出ると、今度はお母さんが攻撃されるから、家も出れないし、どうしようもなかったんだよね」
店には何人かお客さんが入り始めていた。1990年代の懐かしのポップソングが流れている。開店して早い時間はポップな音楽が流れ、終わりのほうに近づくとジャズに切り替わる。それがこの店のいつもの流れだった。ゆーちゃんは流れるポップソングとはまた違ったリズムで、トントンとテーブルを小突く。
「なんで私ばかりって思ったりするけど、仕方ないよね。与えられた状況だもの。乗り越えていくしかないことは分かってるんだけど、時々我慢しきれなくなったりする。笑って生きていたいけれど、誰だって笑えるばっかりじゃなくて。世の中は、生まれながらにして不平等って誰か言ってたっけ。」
僕は「うん」と一言だけうなずいた。僕自身は特に不自由のない家庭で過ごしていたから、彼女の気持ちを分かると言ったら嘘になる。でも、世の中が生まれながらにして不平等だということは理解しているつもりだった。
「世界は平等だ」なんて言葉の真実は「そうあって欲しい」という願いだ。平等にスタートラインに立てるように努力していこう、という誓いにも似たものだ。人は必ず不平等から始まる。
だから、彼女が持てなかったものを持った僕が、本当の意味で理解できることなんて、何一つもないのだろう。しいて出来ることと言えば、聞くことだけだ。
「ちょうだい!」と彼女は僕から缶ビールを奪い去り、一気に飲み干した。そして「ふはー足りない!」とアキさんの方を見る。僕はその視線を遮るようにカウンターに向かうと、持ちあわせの5,000円をレジにつっこみ、缶ビールを大量に取り出した。
「アキさん、すみません。ちょっと頂かせてください。」と言うと「お金払ってるんだから好きなだけ持って行きなよ」と笑った。何を思ったのか口元がニヤついている。店内から「お兄ちゃん、今日は可愛い子お持ち帰りかい?」なんて声があがって、一気に場に笑い声が弾けた。僕は拳をあげて場に応えた。
ふと視線を席に戻すと、ゆーちゃんも便乗して笑いながら手を叩いていた。「お前も当事者なんだからな」と、どこか他人のいじられっぷりを鑑賞しているような彼女に告げて、大量のビールを机に置いた。
何時間飲んでいたのか。案の定、泥酔だった。当然ながらあまり意識が無いのでどう歩いたのかわからないが、僕はいつの間にかアキさんの家にいた。暗い部屋の中、カーテンの隙間から月明かりがこぼれ落ちている。
アキさんはソファーで寝ていた。豪快なその人柄とは違って、音一つ立てることなく夢の中に落ちている。そっと周りを見渡すと12畳程度のリビングルームには僕とアキさんの2人だけだった。
携帯電話を覗き込みメールを確認する(そういえば、この時代はメールだった)。新着メールはない。ゆーちゃんはどこに行ったのだろうかと心配になる。同時に、酔っ払いになっていたであろう僕とゆーちゃんを、わざわざ自宅に招き入れてくれたアキさんに、申し訳ないと心の中で謝った。
顔を洗おうと玄関に向かうと、ゆーちゃんの靴もあった。ちゃんと部屋の中にいるらしい。無事でよかったと胸をなでおろしたとき、何やらトイレから音が聞こえた。まさか、と思いトイレに向かい「ゆーちゃん?」と声をかける。返事がない。
何度声をかけても返事がなかったので「仕方ないよな」と一言呟き、トイレのドアをあけた。案の定、いた。いたのだが、ほぼほぼ顔を便器の水に入水間際だ。
「ゆーちゃん、ゆーちゃん」
「ん、、ちょっと、ごめん。」
かろうじて返事が帰ってきた。「ごめん」と連呼するゆーちゃんが、お風呂場の方を指差した。僕は急いでゆーちゃんをトイレから引っ張りだし、ひとまずお風呂場へ移動させる。この場合、どうすればいいのか分からず、たぶん判断を間違えただろうなと思った。ひとまず、急いでコップに水をついで持って行く。
お風呂場に戻ると、ゆーちゃんはなぜか上半身下着一枚になっていた。床にペタンと座り、背中をこちらに向けてうなだれている。一瞬、見てはいけないものを見てしまったと身を翻そうとしたのだが。
気が付くと、彼女の背中に視線を向けたまま停止していた。
「あ・・・。」
背中が、無数の傷跡に覆われていた。
切り傷や刺し傷にも似た何か、そしてタバコを押し付けられたであろうやけど、打撲、あざ。ありとあらゆる傷が目の前に突如として現れたのだ。映画の中で、戦争に行く兵士が体中傷だらけ、という設定を何度も見たことがあるが、それよりもずっとずっと生々しい。最近出来たであろう傷もあり、まだ血がにじみ出ているものもいくつかあった。
僕はその場に立ちすくんだまま、困惑した頭を回転させて、水を渡した。「ありがと」と言って彼女は水を受け取ると一気にぐいと飲み干し、すぐに壁にもたれかかり、寝息を立て始めた。
どうするべきかと迷い、ひとまず彼女が嘔吐して汚れてしまった部分を拭き取り、リビングまで運ぶ。上着は汚れていたので、近くのコンビニに走り、ダサい白Tシャツを無理やり着せた。そして僕にかけられていたタオルケットをかけ、トイレ掃除をしたところでようやく僕の仕事は終わった。アキさんは一切姿勢を変えることなく寝静まっている。
月明かりの下で、再び横になった。だが、眠れなかった。
ゆーちゃんのグループは、一般的な社会から、軽蔑の視線を送られていた。街で夜遅くまで騒いでいたり、いつも夜遊びばかりしていると、たくさんの人から色々なことを言われる。陰口も叩かれる。だが、彼女たちには彼女たちの事情があり、結果的にそこにしか居場所がなくなり、だから夜の街にいる。
友達のトラブルだったり、親だったり、恋人だったり、様々な理由で人は心にダメージを負う。でも、そうやって居場所がなくなって逃げて来た先に、たくさんの誤解が生まれている。ましてや若いうちに居場所をなくしてしまっては、当然ながら世間的に悪とされるような行為や活動も、心の拠り所として認識してしまうこともある。
そういった全ての結果を、当人のせい、としてまとめて忌避してしまうことは、果たして正しいのだろうか。僕にはそうは思えなかった。人は生まれながらにして平等じゃない。生まれながらにして不平等だ。生まれた場所、生きた環境、そこには圧倒的な差があって、学ぶ環境もすべて違う。
僕には、たまたま不満の無い環境に生まれた人たちが、たまたま望まない場所に生まれた人々を、罵っているのが社会の構図のように見えてならなかったのだ。ゆーちゃんの背中に刻まれた傷は、そんな不平等を物語っているように見えた。
この世にもし、生まれながらにして圧倒的な差があるのだとすれば。手を差し伸べよう、なんてことは言わないけれど、少し視点を変えてみる必要があるのではないだろうかと思う。
朝になって、僕らはアキさんにお礼と謝罪をし、部屋を出た。アキさんは「いーのいーの、またおいで」と声をかけて見送ってくれた。朝方の太陽がとてもまぶしくて、うつむきがちに歩いた。
「ねえ、今度、京都行かない?」
突然、ゆーちゃんから飛び出した言葉に僕は「いいよ」と返した。2つ返事とはこのことだ、即答だったので驚いたのか「早いね!」と彼女は笑った。ただ、僕はなんとなくだったけれど、その気持ちが少し分かる気がしたのだ。
「どこか遠くに行きたい」
呟きが、朝の冷えた空気に染み渡る。どこか、遠くに行きたい、すべてを忘れられる場所に行きたい。その想いは、僕自身が持つ大きなものを無くした経験の中で、よく親しみのある感情だった。だから、表情も、その声音も知っていた。
「いこうよ。一旦、放り投げちゃおうよ、いろいろ」